播州毛鉤
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播州毛鉤物語

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1 播州毛鉤の歴史


明治時代の制作風景  魚を釣るのに疑似針を用いた例は古く、古墳時代に見られるとされる。 しかし現在の毛鉤の祖が文献上にあらわれてくるのは近世に入ってからである。 延宝6年(1678)に刊行された『京雀跡追』には「大しんもん町、魚釣針屋有、はえ頭その外色々しこみのつぎさお品々有」とし、伊右衛門という毛鉤師の名をあげている。 この伊右衛門は貞享(1685)の『京羽二重』にも「釣蠅(はえ)頭」として見え、当所は川魚用の疑餌が蠅に似せて作られたために蠅頭と呼ばれ、しかもその製作が職業として成立していたことが理解出来る。


 元禄年間には鮎の毛鉤釣りは京都を中心として広く関東にまで広がる。 当時は蠅頭の材料には馬の尾や鯨の髭が用いられていたが、技術的な改良も加えられ、元禄16年(1703)の『親身附研上』に「公達や蛍をまねて、ノ流し」とあるのは、毛鉤に金箔が用いられていたものと解される。 精巧さも増したと見え、それまでの蠅頭という名も寛政年間(1789〜1800)頃からは「蚊針」「蚊頭」という名称が一般的となってくる。 同時に毛鉤による釣りの技術は全国的に普及し、例えば喜多村信節の『嬉遊笑欄』(天保元年: 1830)には「山川には香魚(鮎)等を釣る蚊頭というものを用ひ」とあり、また当時の釣の技法所にも、鮎を釣る蚊針は鶏の羽根で作るとし、秋田、上州、加州で用いられている黄毛・黒毛・赤毛・孔雀・蜂がしらの5種を図示している。


 このように京都を中心として発展した毛鉤であるが、幕末から明治初年にかけて、播州・土佐・加賀・秋田等の地でも毛鉤の生産始められるようになった。



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